フォローする
共有
慰謝料代わりに渡されたのは、総資産10兆円と禁欲系スパダリでした。 の小説カバー

慰謝料代わりに渡されたのは、総資産10兆円と禁欲系スパダリでした。

結婚から3年、成瀬寧音は自らの輝きを封じ、夫・桐生恒一に尽くす「貞淑な妻」を演じてきた。しかし、夫の心には常に別の女性がおり、寧音は義母からの蔑みや夫の無関心に傷つき、孤独な日々を過ごす。決定的な絶望は、彼女が海外で誘拐され生死を彷徨った際も、夫が愛人の傍にいたことだった。ついに離婚を決意した寧音に対し、恒一は「自分がいなければ生きていけない」と侮るが、彼女の正体は国内屈指の財閥の令嬢だった。迎えに現れた100台の高級車と共に、一族の至宝として社交界へ帰還した彼女。兄たちから千億規模の企業や莫大な資産を譲り受け、エンタメ界や財界を席巻する寧音の前に、最強の覇者・東条嶺央までもが求愛者として現れる。かつての夫・恒一は豹変した元妻の輝きに圧倒され、後悔に震えながら復縁を乞うが、彼女を溺愛する5人の兄たちが鉄壁のガードでそれを阻む。かつて虐げられた薄幸の妻が、真の姿を取り戻して華麗に返り咲き、最高の愛を手に入れる逆転劇が幕を開ける。
共有

1

廃墟と化した倉庫内は薄暗く湿り、周囲は身の毛もよだつような冷気に包まれていた。

「恒一、お願い……私、誘拐されたの。早く助けに来て……」

成瀬寧音は倉庫の隅にうずくまっていた。全身には棍棒で殴られた痕が残り、陶器のように白く滑らかだった顔は、幾つもの平手打ちの跡で赤く腫れ上がっている。痛む体に鞭打ち、彼女はポケットから必死に携帯電話を取り出し、夫である桐生恒一に電話をかけた。

その声は嗚咽に震え、恐怖で歯の根がガチガチと鳴っていた。

「寧音、いい加減にしろ」

受話器の向こうから響いたのは、男の冷たく苛立たしげな声だった。

寧音は一瞬、息を詰まらせた。胸の奥が締めつけられるように苦しく、熱い塊が喉を塞ぐ。「本当なの……彼らは銃を持ってる。私……」

「もういい」 恒一に遮られた。その声は、晩秋に降る雨のように冷酷だった。「俺を呼び戻すために、そんな嘘までつくのか? 雪乃が心肺停止で救命処置中なんだ。少しは分別を持て」

「嘘じゃ……」

「帰国してから話を聞いてやる。それまで二度と邪魔をするな」

ツーツーという無機質な切断音が響き、電話は切れた。

寧音は暗転した画面をただ見つめ、目頭が熱くなっていくのを感じた。心臓が底なしの冷たい淵へと、急速に沈んでいく。

人は極限の絶望に陥ると、表情すら作れなくなるものだ。

ほんの半日前まで、二人は海外で休暇を過ごしていた。

小林雪乃から胸の痛みを訴える国際電話が一本入ると、恒一は寧音を見知らぬ街角に置き去りにし、振り返りもせず空港へ向かったのだ。

妻が一人で異国にいて危険に遭うかもしれないなど、彼の頭には微塵もなかった。

彼の瞳に映るのは、ただ雪乃だけだった。

恒一が去って間もなく、寧音は頭から袋を被せられ、無理やりバンに押し込まれた。

その後、廃倉庫に放り込まれると、男たちの拳と蹴りが容赦なく浴びせられ、十数発もの平手打ちを顔面に受け続けた。

男たちが殴り疲れ、食事に出かけた隙に、ようやく彼女は助けを求める電話をかけることができたのだ。

寧音のLINEに、雪乃から一枚の写真が届いた。

そこには、全身ずぶ濡れになりながらも、まるで希少な宝物を守るかのように、雪乃を胸に抱きしめる恒一の姿があった。

焦り、痛み、そして恐怖――その顔に刻まれた生々しい表情は、寧音がこの三年間、一度も目にしたことのないものだった。

寧音の心臓は、最も鋭利な刃で抉られるかのように、激しく疼いた。

彼女は自嘲の笑みを漏らす。そして、笑いながら涙が零れ落ちた。

自分が生死の境を彷徨っているというのに、夫は別の女の傍で、限りない優しさを注いでいる。

こんな結婚、もはや続ける意味などない。

彼女は目元の涙を乱暴に拭い、漆黒の瞳に冬の湖のような冷徹な光を宿した。

(ここから逃げ延びたら、必ず離婚してやる!)

その時、ドアの外から鉄鎖を引きずる音が聞こえた。奴らが戻ってくる気配だ。

寧音は携帯をポケットに押し込み、頭上の狭い換気窓に視線を定めた。

他人に縋るより、自分を頼るしかない。

彼女は積み上げられた木箱に足をかけ、膝を擦りむいた激痛に耐えながら、油汚れで黒ずんだ窓枠に無理やり体をねじ込んだ。 錆びた鉄線が腕を切り裂き、鮮血が雨水と混じり滴り落ちる。彼女は歯を食いしばり、必死で逃げた。

着地したのは、泥濘の裏路地だった。

激しい雨が降り注ぎ、地面は滑りやすくなっている。 落下の衝撃で足首から鈍い音が響き、突き刺すような激痛が走った。

彼女は悲鳴を飲み込み、傷ついた足を引きずりながら路地の奥へと進んだ。

よろめきながら大通りに出た時、一台のロールス・ロイス・ファントムが雨夜の中を疾走していた。

「クソッ!あの女、逃げやがった!」

「追え!」

背後から、誘拐犯たちの怒号が炸裂した。

寧音は必死に歯を食いしばり、意を決してそのロールス・ロイスの前に飛び出した!

雨夜に、甲高いブレーキ音が激しく軋み響く――。

窓が下り、運転手が顔を出して怒鳴った。「死にてえのか!」

寧音の視線は、後部座席に鎮座するその人影に釘付けになった。

漆黒のスーツを纏った男は、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。気品に満ちた佇まいは周囲を圧倒するオーラを放ち、人を寄せ付けない冷徹さをまとっている。

雨水と涙が入り混じり、寧音の顔を濡らしていた。彼女は乱暴に顔を拭い、すがりつく眼差しで彼を見つめた。「……お願いです。誘拐されたんです。助けてください」

その声に反応し、男がゆっくりと顔を向けた。

泥まみれで無惨な姿ながら、背筋だけは凛として折れていない寧音を、男の深淵のような瞳が静かに捉えた。その瞳の奥に、かすかな興味の色が走った。

背後からは、荒々しい足音と罵声が刻一刻と近づいていた。