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あの人の未来に、私はいない の小説カバー

あの人の未来に、私はいない

神崎夕凪が布川グループの御曹司、布川和馬と夫婦の契りを交わした日、一族からの祝福は皆無だった。唯一、布川家の老婦人から届いたのは、冷徹な賭けの提案だった。「三年の月日が流れても二人の愛が変わらぬなら、一族に君を認めさせよう。だが、もし愛が潰えたなら、潔く和馬の前から姿を消しなさい。その時は、私が彼に相応しい家柄の伴侶を改めて選ぶ」という過酷な条件だ。和馬は家族との縁を切り、命を懸けてまで夕凪への愛を貫いてくれた恩人でもある。そんな彼を支え続け、添い遂げる決意を固めた夕凪は、その挑戦を毅然と受け入れた。彼との絆があれば、三年の歳月など容易に乗り越えられると信じて疑わなかった。しかし、運命は残酷な結末を用意していた。約束の三年目を迎えたその時、あろうことか最も信頼していた布川和馬自身が彼女を裏切ったのである。家柄の壁を越えた純愛の末に待ち受けていたのは、あまりにも切ない裏切りの真実だった。
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章 2

「ピン――」という音と共にエレベーターの扉が開く。

中から聞こえてきたのは、女性秘書のはにかんだ声だった。

「布川社長……まだ扉、開いてますよ……恥ずかしいです」

布川和馬は低く笑う。

「このフロアに入れるのは俺だけだ。何を恥じる必要がある?……それに、こういうの、ちょっとスリルがあって、悪くないだろう?」

次の瞬間、布が裂ける音と、女性秘書の甘い声が静寂を破った――。

神崎夕凪の足取りは、次第に重くなっていった。この場所に見覚えがある――布川和馬と付き合っていた頃、彼に連れられて来たことがあった。あのときと同じように、彼は甘い言葉で彼女を誘い、二人は抑えきれないほどに求め合った。

――死に物狂いで、貪るように。あのとき使ったのは、全部で18の部屋。どの部屋にも、二人の痕跡が残っている。熱くて、むさぼるような、愛の記憶。

だが今回は、少し違っていた。結婚したとき、布川和馬は夕凪の指紋と虹彩をセキュリティに登録していた。そのおかげで、女性秘書を騙しても入れなかったこのフロアに――神崎夕凪だけは、足を踏み入れることができた。

「きゃっ!」突然、女性秘書が叫び声を上げた。驚いた彼女は、咄嗟に布川和馬の背中に隠れた。

「だ、誰かいる…!」

黙々と作業に没頭していた布川和馬の背中が、不意にぴたりと止まった。ゆっくりと振り返るその耳には、まだ澄んだ水音が残響している。

彼は何の躊躇いもなく振り返った。神崎夕凪の目に飛び込んできたのは、かつて彼女にこの上ない快楽を与えた、見慣れすぎた身体だった。

視界が一瞬、真っ暗になる。神崎夕凪はそのまま意識を失いかけ、しかし布川和馬が素早く抱きとめた。火照った体温が肌越しに伝わり、吐き気が込み上げる。夕凪は勢いよく和馬を突き放し、二度と近づけまいと必死に距離を取った。

そんな彼女の拒絶に構わず、布川和馬は冷ややかな視線を女性秘書に向ける。その声は、氷の刃のように冷たかった。

「俺、言ったよな。うちの奥様を不機嫌にさせたら、どうするべきかって」

女性秘書は歯を食いしばりながら、神崎夕凪の目の前に膝をついた。そして自分の頬を、左右交互に強く叩きはじめた。

「奥様、すべては私の過ちです。布川社長の身体に魅了され、私のほうから誘惑してしまったんです。彼はただ、世の男たちがよく犯すような過ちを犯しただけで……でも、本当に愛しているのは、あなただけなんです」

滑稽だと、神崎夕凪は思った。だが目の端に映ったのは、女性秘書を満足げに見つめる布川和馬の顔だった。あたかも、彼女の芝居に合格点を与えているかのように――。

下腹部が鈍く痛みはじめ、夕凪はこれ以上この茶番に付き合う気はなかった。病院に向かおうと身を翻したその瞬間、布川和馬が手を伸ばして彼女の腕をつかんだ。そして女性秘書のほうへ視線を移し、冷ややかに言い放つ。

「どうやら、君の誠意は足りなかったようだ。うちの奥様は、君を許す気などないらしい」

女性秘書は唇を噛みしめながら、布川和馬の氷のような視線を背に、裸同然の姿で部屋を出ていった。神崎夕凪は目を見開き、まるで現実とは思えない光景に息を呑む。

布川和馬はすでに服を整えており、ゆっくりと夕凪へ歩み寄ってくる。その瞳に浮かぶのは、寸分の濁りもない愛情――まるで先ほど浮気現場を押さえられたのが彼ではないかのように。

「夕凪。俺の心の中にいるのは、君だけだ。君を傷つけるような相手は、絶対に許さない」

神崎夕凪は怒りに震え、足元から力が抜けてしまった。もう、自分の力では歩けない。ただ、布川和馬の腕に抱きとめられるまま、身を預けるしかなかった。声を振り絞って、神崎夕凪は彼を責めた。

「始まりは……あなたでしょ」

「夕凪、それは違うよ。 僕は君の夫だ。君と僕は一心同体。だから、君を傷つけないために、僕はこうするしかなかったんだ。だけど――あの丘村晴香なんて、何の価値がある? 君を不快にさせたなら、その代償は払ってもらうしかないだろう」

そう言いながら、布川和馬は神崎夕凪の唇の端に口づけた。それはかつて、神崎夕凪が何よりも愛していた仕草だった。拗ねたときも、怒ったときも、彼はこうして優しくついばみ、気づけば彼女の機嫌を直していた。

けれど今――彼の口もとからは、他の女の匂いがした。その瞬間、神崎夕凪の視界が真っ暗になった。そして彼女は、ゆっくりと意識を手放した。

神崎夕凪が目を覚ましたのは、二人の看護師のひそひそ声がきっかけだった。

「聞いた? 布川夫人が入院したの、旦那と女性秘書がベッドにいるとこ見ちゃったからなんだって。 ショックでその場で倒れたらしいよ」

「でも布川社長、奥さんのためにその女を全裸で街中歩かせたんだってさ。いや〜、あれはエグい」

「それでも布川夫人は運がいいよね。親もいないのに、あんな完璧な男捕まえるなんて、前世でよっぽど徳を積んだんじゃない?」

輸液ボトルを取り替えた彼女たちは、そのまま何事もなかったように部屋を後にした。神崎夕凪は、ゆっくりと目を開け、苦笑を浮かべた。

――運が、いい?

そう思っていた時期も、確かにあった。布川和馬は、財も容姿もすべてを持ち合わせていて、ロマンチストで優しい。まさに、理想そのものの男性だった。だからこそ、何度も訊いたのだ。(私は前世で、いったいどれだけ徳を積んだら、あなたと出会えるの?)と。

布川和馬は彼女を抱き上げ、その逞しい太腿の上に跨らせると、まるで蜜を含んだような甘い声で囁いた。

「きっと前世で相当な徳を積んだから、君を嫁にもらえたんだな」

その言葉がまだ耳に残る中、次の瞬間、彼の姿は丘村晴香のSNSに現れた。

【まったくもう、さっきまで泣かせといて、すぐにすり寄ってくるんだから。でも、こんなにイケメンで優しいから……許してあげる♡】

あの手が、涙を拭ってくれたあの手が、マッサージしてくれたあの手が――今は別の女のために海老を剥いていた。真っ赤な油が婚約指輪の青いダイヤに飛び散り、汚れて、目に刺さるほどだった。

彼女は痛みに耐えながら点滴針を引き抜き、大きくなったお腹を抱えて病院を出る。向かったのは、亡き両親が生前暮らしていた、あの古びた家だった。

けれど、建物の下に立った瞬間、またしても布川和馬のことが頭をよぎる。

この家から彼に連れ出された日のことを思い出す。

あの日、彼はこう言った。

「君の前半生はご両親が育ててくれた。これからの後半生は、俺が守る」

――けれど、その“後半生”が、こんなにも短いものだとは知らなかった。

狭くて暗い階段を一段ずつ登りながら、ようやく扉を開けたそのとき、目に飛び込んできたのは、布川和馬が丘村晴香の腰を抱き寄せ、強引にキスを交わす光景だった。