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その令嬢、多才につき。 の小説カバー

その令嬢、多才につき。

かつて命を救われた恩を返すため、水野海月は事故で植物状態となった藤本暁の元へ身代わりとして嫁いだ。類まれなる医術を駆使して彼を完治させ、二年にわたり献身的に尽くしてきた彼女だったが、その想いは報われない。暁の「本命」である女性が帰国した途端、彼は無情にも離婚を突きつけたのだ。海月は潔く身を引き、名家を追われた元妻として世間の嘲笑を浴びることになる。しかし、誰も彼女の真実の姿を知らなかった。圧倒的な実力を誇るレーサー「moon」、世界を魅了するデザイナー「Xi」、伝説のハッカー「M」、そして名高き神医。そのすべてが彼女の隠された顔だった。正体が次々と明らかになるにつれ、暁は己の過ちに気づき、跪いて復縁を乞う。だが、海月の前に一人の若き総帥が現れ、彼女を抱き寄せて宣言した。「失せろ、彼女は俺の妻だ」。あまりに多才な令嬢を巡る、後悔と溺愛の物語が幕を開ける。
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章 1

薄暗い部屋のキングサイズベッドで、二人の男女が肌を重ねていた。

ベッドの頭上、真っ白な壁には花嫁のウェディングフォトが飾られている。写真の中の彼女はレンズに向かって優しく微笑み、幸福感に満ち溢れていた。

「ねえ……もし水野海月が、私たちがこうして新婚のベッドで戯れているのを見たら、悔しくて泣き出しちゃうかしら?」

「フン、新婚のベッドが聞いて呆れる。結婚してから一度もあいつに触れたことすらない。いつも隣の寝室で寝ていたさ」

「暁兄さん、優しい……」

二人の甘い囁きが、喘ぎ声に溶けていく。

寝室のドアの前に立つ若い女性はその会話を耳にし、両手で口を押さえ、声を殺して泣き崩れた。

行為が終わり、静寂が訪れる。

藤本暁はショートパンツだけを身につけて寝室のドアを開けると、リビングで静かに座っている女性の姿が目に入り、不意を突かれた。内心、わずかに驚く。(水野海月はいつ帰ってきていた? どこまで聞いたのだろうか?)

「全部聞いたのか?」

暁はぶっきらぼうに尋ねると、キッチンでグラスに湯を注ぎ、リビングのソファに腰を下ろした。

色白で痩身な体には生々しい情事の痕がそこかしこに残っているが、彼は全く気にする素振りもなく、平然と湯を数口飲んだ。

「ちょうどいい。サインしろ」

暁はコーヒーテーブルの下の引き出しを開け、中からファイルを取り出してテーブルの上に放り投げた。「お前も聞いたろ。これ以上引き延ばしても意味がない」

海月はそのファイルに手を伸ばし、最初のページを開く。『離婚協議書』という文字が目に飛び込んできた。最後のページまでめくると、男性側の署名欄には、既に達筆な署名が書き込まれている――藤本暁。

「目を通せ。他に条件があれば言え。問題なければサインしろ」

男はソファに深くもたれかかり、煙草に火をつけた。立ち上る煙が、彼の冷淡な表情を曖昧にぼかした。

「本当に、もうやり直すことはできないの?」

彼女はうつむいた。泣いたばかりの声はかすれ、額にかかるぱっつんの前髪が黒縁メガネに重なり、その姿は痛々しいほど哀れに見えた。

藤本家に嫁いでからというもの、彼女は暁の世話に百パーセントの心血を注いできた。いつかは二人で幸せに暮らせると、そう信じていた。

吹雪の中で傘を差し出してくれた、あの日の少年の面影を思い出し、彼女は掌を強く握りしめ、僅かな可能性にすがった。

「水野海月、みっともない真似はよせ。 俺と怜のことは、お前も聞いて、見たはずだ。それでも藤本夫人という地位にしがみついて、誰を不快にさせたいんだ?」

暁はテーブルの灰皿に煙草の灰を落とし、苛立たしげに眉を上げた。「それに、俺とお前の結婚は、元から互いの利益のためだったはずだ」

海月の心臓が、ずしりと重く沈んだ。薄葉怜――暁にとって、怜は本命であり、心の奥深くに刻まれた朱砂痣なのだ。

そういうことだったのか。

女は打ちひしがれて俯き、両手で服の裾を握りしめた。まるで薄葉怜が現れさえすれば、暁の視線は決して彼女から離れることがないかのようだった。

かつて怜が海外へ発つ日、暁は空港へ追いかける途中で交通事故に遭い、植物状態となった。本来、暁と政略結婚するはずだった水野家の長女、水野雫は他の男と関係を持ち妊娠していた。そのため、水野家は代わりに海月を差し出したのだ。

身代わりの花嫁――そうして彼女は、藤本暁の妻となった。

彼女は暁を献身的に介護し、彼のために、かつての自分の生活のほとんどすべてを断ち切った。

デザイン画、カーレース、ランセット、コンピューター。それらにもう随分と触れていない。

一年前、暁は目を覚まし、少しずつ回復していった。彼女は来る日も来る日も彼のそばに付き添い、身の回りの世話をし、心を尽くして支え、決して離れなかった。だが、それも本命の帰還には敵わなかった。

二年に及ぶ結婚生活でも、やはり、暁の心を温めることはできなかった。

返事のないことに、暁は思わず眉をひそめ、テーブルの向かいに座る女を改めて観察した。

海月の顔立ちは可憐で美しい。重たい前髪と分厚い黒縁メガネで隠されてはいるが、その奥にある美貌の片鱗はうかがえる。しかし、彼女は普段から身なりに構わず、いつもどこか垢抜けない格好をしていた。

性格も、あまりに朴訥としすぎている。

昏睡から目覚めて以来、毎日顔を合わせていたが、彼女に対して特別な感情が湧くことは一切なかった。理由は一つ、面白みがないのだ。

来る日も来る日も続く気遣いと世話、代わり映えのしない外見と生活。それはまるで一杯の白湯のように、あまりにも平凡で退屈だった。

この二年、海月が藤本家において“合格点”の妻であったことは認める。だが、彼の女としてはふさわしくない。彼女には、その資格がなかった。

一本の煙草が終わりを告げる。暁はそれを灰皿でもみ消し、何気なく口を開いた。「お前が藤本家に来てから……」

彼は一度言葉を切り、女が依然としてうなだれているのを見て、その全身から漂う哀れな雰囲気に苛立ちを覚えた。

「お前が水野家でどういう扱いだったかは知っている。離婚後、慰謝料とは別に別荘を三棟、それに6億円をやろう。車庫の車も好きなのを一台選んでいい。それだけあれば、今後の生活も少しは楽になるだろう」

彼が病床にいた頃、一年もの間、海月が懸命に世話をしてくれたことは覚えていた。目覚めた後も、リハビリに付き添ってくれた。

この女に愛情は全くないが、これまでの彼女の働きを考えれば、個人の資産から多少上乗せしてやっても構わないと思っていた。

何しろ、彼女は人生で最も美しい二年間を、この藤本家に縛られて過ごしたのだから。

彼が腕を組むと、鎖骨のあたりにある小さなタトゥーが海月の目を刺した。

UR――薄葉怜。

「突然のことだから、一日だけ考える時間をやる。条件に不満があれば言え。 だが、あまり無茶を言うな……俺の気性は知ってるだろ……」

「考える必要はないわ」

海月はテーブルの上のペンを手に取り、離婚協議書の末尾に、流れるような筆致で自身の名前を書き記した。

「すぐに荷物をまとめて出ていく。二人の邪魔はしないから」

暁は満足げに頷いた。「結構だ」

正直に言えば、海月のこの従順な性格は本当に気に入っていた。まるで召使いのように、彼の言うことに決して逆らわない。

今日のような状況でも、彼女は騒ぎ立てることもできたはずなのに、黙って耐えることを選んだ。

本当に、退屈な女だ。

こんな人間と長く暮らしていれば、自分まで同じようになってしまうのではないかと恐ろしくなる。

感情というものは、もとより無理強いできるものではない。

暁は契約書を引き寄せて確認し、何か言おうとした。その時、彼の白いシャツを羽織っただけの怜が、しなやかな足取りで姿を現した。

シャツの裾は太ももの付け根あたりまでしかなく、ボタンも二、三粒しか留められていないため、肌の大部分が露わになっている。

濡れた髪が白いシャツをところどころ湿らせ、そこはかとなく妖艶な雰囲気を醸し出していた。

物音に気づいて顔を上げた海月は、そのシャツが暁のものであり、しかも自分が選んだものであることに一目で気づいた。

不意に二人の視線が絡み合う。怜はにこりと目を細め、勝利の笑みを浮かべた。それは、あからさまな示威行為だった。

しかし、暁の視線がこちらへ向かうのを感じ取ると、すぐにその笑みを消した。

「海月ちゃん、初めまして。私が薄葉怜よ」

彼女は優雅に暁の隣に歩み寄って腰を下ろし、骨がないかのように彼の肩にもたれかかった。「暁兄さんから、いつも海月ちゃんのことを聞いていたわ。やっとお会いできて、嬉しい」

海月は目を伏せ、返事をしなかった。

その様子を見て、怜は暁の体を軽く押し、甘えた声を出した。「さっき、暁兄さんが海月ちゃんに別荘を三棟あげるって言ってたけど、私が前から湖畔の別荘を欲しがってたの、知ってたでしょ? どうしてあれをあげちゃうのよ。もう私のこと、愛してないの?」

暁は昔から怜の頼みには何でも応えてきた。彼は海月の方を向いて言った。「怜の言う通りにしよう。代わりに別の別荘をお前に選んでやる」

海月は顔を上げ、分厚いレンズの奥から、澄んだ瞳で暁を見つめた。「私にくれるって言ったじゃない」

怜が甘えて言う。「暁兄さーん」

暁の眉間に、苛立ちの色が浮かんだ。「水野海月、人の話が分からないのか? これはすべて、俺がお前に特別にくれてやるものだ。いらないというなら、一つも受け取るな」